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●スタン・ブラッケージ 映画の極北 メールニュース
NO.20
2002.12.28

○「LOVE SONGS」京都上映決定!
○「LOVE SONGS」アップリンク・ファクトリーでアンコール上映!
○LOVE SONGSをめぐって 黒川芳朱氏より那田尚史氏へ

☆ 「LOVE SONGS」京都上映情報 ☆

2003年1月21日(火)〜23日(木)の21:00より、京都みなみ会館にて上映されます。京都方面の方はぜひこの機会に御覧いただければと存じます。

京都みなみ会館URL
http://www.rcsmovie.co.jp/minami/

☆ スタン・ブラッケージ ハンドペイント作品集「LOVE SONGS」アップリンク・ファクトリーにてお正月アンコール上映! ☆

12月30日より、東京・アップリンクファクトリーにて「LOVE SONGS」『DOG STAR MAN-完全版-』「BRAKHAGE EYES」を上映します。

上映作品、タイムスケジュールは下記の通りです。見のがした方はぜひこの機会に御覧ください。

「LOVE SONGS」
【上映作品】
『アーサン・エアリー』 2分/1995
『美しき葬列』1.5分/1996
『コミングルド・コンテナーズ』3分/1996
『カップリング』4.5分/1999
『LOVE SONG』11分/2001
『LOVE SONG 2』2分/2001
『マイクロ・ガーデン』3.5分/2001
『コンクレサンス』3.5分/1996 (フィル・ソロモンとの共作)
『エレメンタリー・フレーズ』33分/1994 (フィル・ソロモンとの共作)

(全て16mmスタンダード/サイレント/64分/カラー/アメリカ映画)

12/30(月)〜1/17(金) 連日17:30〜/19:30〜
(12/31、1/1は休映)

「BRAKHAGE EYES」
Aプロ(59分)
『FIRE OF WATERS』(1965年/7分)
『窓のしずくと動く赤ん坊』(1959年/12分)
『夜への前ぶれ』(1958年/40分)

Bプロ(58分)
『THE DEAD』(1960年/11分)
『思い出のシリウス』(1959年/11分)
『MOTHLIGHT』(1963年/4分)
『自分自身の眼で見る行為』(1971年/32分)

Cプロ(78分)
『DOG STAR MAN-完全版-(1961-1964/78分)

(全て16mmスタンダード/『FIRE OF WATERS』を除いてサイレント作品/アメリカ映画)

Aプロ 12/30(月)1/4(土)1/7(火)1/10(金)1/16(木)
Bプロ 1/2(木)1/5(日)1/8(水)1/11(土)1/14(火)
Cプロ 1/3(金)1/6(月)1/9(木)1/12(日)1/13(月)1/15(水)1/17(金)

※すべて15:30〜の上映
1回券 ¥1,300  リピーター ¥1,000(ともに1ドリンク付)
問い合わせ:アップリンク・ファクトリー 03-5489-0750
http://www.uplink.co.jp

☆ LOVE SONGSをめぐって ☆

『那田尚史氏へ 美術用語の転用について』

ブラッケージのハンドペイント映画は抽象表現主義の作品であり、いまどき抽象表現主義にこだわり続けるのは反動だが、そういった生き方も芸術家の典雅な姿勢には違いない、とする那田尚史氏の批評がメールニュース NO.12に掲載された。これでは、ハンドペイント映画は抽象表現主義というカテゴリーに納まってしまう。私は、両者に共通性はあるがハンドペイント映画を抽象表現主義と呼ぶべきではないとの所見を述べ、那田氏の反論を求めた(NO.13)。那田氏から反論が寄せられた(NO.14)。感謝したい。しかし、那田氏は問題の核心には何も答えていない。拍子抜けしてそのままにしてあったのだが、年末なので反論しよう。

那田氏によると、黒川の批評は物理学や哲学の概念を持ってくる権威主義的演繹批評であるのに対して、那田氏の批評は自分の言葉で語る批評だという。ところで、抽象表現主義とは那田氏の言葉ではなく、映画批評の言葉ですらなく、美術の言葉である。

あれ、あれれれ、どうしたのかな。

論争の主題は紛れもなく美術用語の転用である。美術用語を転用し、映画作品にレッテルとして貼り付けただけでは批評は成立しない。他人の褌で相撲を取っているにすぎず、読者の思考停止を招く。もちろん、既存の言葉の再解釈はあってしかるべきである。したがって、那田氏が美術という枠を超えた抽象表現主義を提唱されるのであれば、その趣旨を説明し抽象表現主義を定義し直して欲しい。私の問いかけは以上である。那田氏からこの点への回答はなかった。再度回答を求め反論を終わる。

若干の補足をしておこう。抽象表現主義とは、第二次世界大戦後の40年代後半、ニューヨークのウィレム・デ・クーニング、アルシー・ゴーキー、フランツ・クライン、ロバート・マザウェル、ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマン、といった画家たちを中心とする主に絵画の芸術運動である。ただし、彼らが抽象表現主義を自称したわけではなく、マニュフェストや綱領もない。また、作品の傾向も多様であり、大まかな特徴を共有する画家たちの総称といったニュアンスが強い。しかしながら、グリーンバーグのいう「アメリカ型絵画」を形成し、50年代に最盛期を迎え国際的かつ歴史的影響力をもつ。一方、ハンドペイント映画はブラッケージが1984年あたりから制作し始めたフィルムに直接絵を描く映画である。つまり、ハンドペイント映画が抽象表現主義であるという事実はない。あくまで那田氏の解釈であり主張である。那田氏は2001 年の7月14日にBOX東中野で行われた『BRAKHAGE EYES NIGHT』のトークショーで、『夜への前ぶれ』と『DOG STAR MAN』について「広義では表現主義、美術的にいうと抽象表現主義である」と発言されている(メールニュースNO.3)。ブラッケージをかなり早い時期から抽象表現主義として捉えるべきだという批評的視点が確固としてあるのだ。その意味でも、那田氏による美術や時代の枠を超えた表現思想としての抽象表現主義の再定義が待たれる。

那田氏は、核心以外の細かな問題にはいろいろと反論している。以下それに答える。

まず「黒川氏のメールニュースの反論は反論になっていない。ブラッケージが抽象表現主義の影響を受けていることをお互いに認め合っているからだ」という。私にはこの意味が全く分からない。那田氏が影響を指摘するだけなら異論はない。抽象表現主義に分類することに反対しているのである。かといって、互いが影響(共通性)を認めていることが議論のネックにはならないだろう。むしろ、抽象表現主義を再定義するだけで済むのである。

私は質問状で、ハンドペイント作品と抽象表現主義の相違点を二つ上げた。これは抽象表現主義が美術概念であることを補足するためのもので、那田氏が美術という枠を超えた抽象表現主義を提唱すれば解消する問題である。しかし、反論があったので答えておこう。

まず、私は抽象表現主義がほとんど絵画に限定された運動であることを強調した。那田氏の反論はこうである。「映画と絵画の違いは、子供でも分かることだ。要するにブラッケージは映画というメディアの中で抽象表現主義の絵画を動かしてみせたかったのである」。那田氏は自分がブラッケージになったような素朴さで、抽象表現主義の絵画が動けば抽象表現主義の映画が生まれると考えている。もちろんそんな映画があってもいい。しかし、私は抽象表現主義の絵画が動いたら抽象表現主義ではなくなると思っている。抽象表現主義は、絵画の復権と自律を目指し、絵画の構造を問いつめていった運動であり、美術的な重要性のひとつはそこにあるからだ。バーネット・ニューマンの『ワンメント1』を例にとろう。縦長の暗い赤褐色の画面の中央にオレンジのストライプがラフに引かれている。それだけの絵だ。オレンジ色の線と赤褐色の色面は互いに拮抗し、図と地の関係は破棄されている。このストライプが左右に移動したらどうなるか。背景の上を線が動くという錯覚が生まれ、この絵画の緊張感のある構造は崩壊する。

従来の抽象表現主義概念は絵画に即して形成されている。それを借用して映画について語ろうとすると様々な問題がおこる。この問題を回避するには、那田氏が絵画を超えた抽象表現主義を提起するしかない。

私は、もう一つの違いとして画面の大きさをあげ「抽象表現主義の絵画は描く者と見る者の双方を包み込むように巨大であることです。ハンドペイント作品も上映時に画面を拡大できますが、制作時は16ミリやせいぜいアイマックスのフィルムです」と書いた。これも、美術を超えた抽象表現主義を提起すれば答える必要はない。私は、抽象表現主義の特徴とされる大画面に関する那田氏の見解を聞いてみたかったのである。回答は「私は学生時代にポロックの展覧会にいったが、驚くほど巨大だという感じはしなかったし、16ミリのスクリーンを眼前に見る方がむしろ巨大な印象を受ける」というものだった。

「驚くほど巨大」では主観的なので、一つの基準を確認したい。絵画について「巨大」あるいは「大画面」といえば、それはイーゼル(画架)からはみ出す大きさを指す。

那田氏がポロックの展覧会を見たのは海外でのことだろうか。私の勘違いでなければ、日本ではこの20年ぐらいの間にポロックの大規模な展覧会は開かれてはいない。考えられるのは、1985年に渋谷区立松涛美術館で開かれた『ジャクソン・ポロックの素描展』である。どんな画家でもそうだが、ポロックにも様々なサイズの絵がある。そして巨大な絵は運んでくるのが大変なので、なかなか日本で展示されることはない。ポロックの代表作は壁画とイーゼル絵画の中間の状態にあり、大画面が抽象表現主義の形成に果たした重要性は美術では常識となっている。大画面が決定的となるのは1948年の『第一番A』(172.7×264.2cm)以降であり、『秋のリズム』(270.5×538.4cm)、『ラヴェンダー・ミスト:第1番』(221×299.7cm)、『一:第31番』(168.8×530.5cm)、などの代表作がある。

ところで、質問状で私が問題にしたのはスクリーンとキャンヴァスの単純な比較ではなく、制作時と鑑賞時の画面サイズの関係であり、大きさがもたらす創作上の意味である。ハンドペイント映画は35ミリ幅のフィルムに手で絵を描く。ほとんどすべての絵画より小さい。ポロックは床にロールキャンヴァスを敷き、手ではなく全身で線を引く。制作時に何が起きているか、二人の言葉を聞いてみよう。

ジャクソン・ポロック「私の絵画は、イーゼルからは生まれない。描く前にキャンヴァスを張ることはまずない。私は張られないキャンヴァスを固い壁や床に止めるのを好む。その固い表面の抵抗が必要なのである。私は床の上だともっとくつろげる。こうすると私は絵の周囲を歩き、その四方から制作し、文字通り絵の中にいることができるので、その絵をもっと親しいものに、私が絵の一部であるかに感じる」。「絵のなかにいるとき、私は自分が何をしているか意識しない。いわばなじんだ時期をへてはじめて私は何をしていたかを知る」。(藤枝晃雄『ジャクソン・ポロック』美術出版社)

スタン・ブラッケージ「まず8ミリに描いた。35ミリは親指の爪ぐらいであり、アイマックスのフレームは35ミリ8枚分で、まるで壁画のようだった。はじめにフレームに必要なアクリル絵具をここに伸ばす。それから薬品を加える。漂白剤とか、便器洗浄剤など家庭にあるものだ」。「薬品で絵具を変形させて形を変えるわけだ。たとえばワセリンで部分的に絵具をはじくようにしておくこともある。いわば私は絵具を育てる庭師みたいなものかもしれない。フィルムの齣ごとに庭を作り24齣で時間を駆け巡る目に見えるヴィジョンの鎖にするのだ」。(キース・グリフィス『アブストラクト・シネマ』ダゲレオ出版)

ブラッケージが葉書にも満たないアイマックスのフレームを壁画と呼んでいるのが楽しい。「絵具を育てる」という言葉は、プロセスを冷静に見つめていることを物語っている。空間のみならず時間のつながりを俯瞰するように描いている。これに対してポロックは、創りつつある空間を俯瞰しながら描いてはない。キャンヴァスを立てかけて離れて見れば、描いている絵の全貌は分かる。だが、ポロックはそうせず、絵のなかに入り込み空間を内側から生成する。制作後キャンヴァスを壁に掛ける。制作時と鑑賞時の画面は同じ大きさなので、鑑賞者は等身大で画家が生成した空間に対面する。ハンドペイント映画は一齣の小さな世界を拡大して見せる。二つの空間は明らかに違う。

那田氏は、私が『Fs』に書いた「隙間のある時間の造形『ハンドペインティッド・フィルムス』を見る」も批評してくれた。彼は私の文章をこう要約する。「簡単に言えば、黒川氏は、抽象表現主義を説明するのにホワイトヘッドなどを引用しながら、量子力学の世界では因果律が壊れている=非決定論が採用されている、と述べて、ブラッケージの作品を『こうして非決定論的時間モデルが誕生し、スクリーンの上に因果律の存在しない時間が流れ始める』(P25)と結論づけている」。

なんだかよくわからない、ある意味で非決定論的である。他の個所も読んで判断すると、黒川は抽象表現主義の作家たちとブラッケージは量子力学の非決定論の影響を受けていると書いているらしい。へぇー。私の文章の該当個所を抜き出す。

「発生学者のC・Hウォディントンは『現代芸術と二十世紀自然学』の中で、抽象表現主義の画家たちの証言も交え、現代の芸術と科学の自然観の共通性を論じている。科学は、物質の実体をつかもうと分子へ原子へと物を細分化していった果てに『極微の世界の事態には厳密な因果律がない』という量子力学の非決定論に達する。物体の核は不確かだった。ここで<事実>をどう捉えるかが問題になる。この事態に哲学者A・N・ホワイトヘッドは<事実>のかわりに<出来事>という時間の推移と空間的な広がりが備わった概念を提起する」。この後にウォディントンの引用が続く。その内容は、ホワイトヘッドの<出来事>という概念が現代の画家たちの考え方と極めて近い関係にある、ということである。

那田氏が誤った紹介をしているように「黒川」が「抽象表現主義」の画家たちは「量子力学の非決定論」の「影響を受けた」といっているのではなく、「ウォディントン」が「ホワイトヘッド哲学」と抽象表現主義を含む「現代の画家たち」の考え方には「共通性がある」といっているのである。このくだりは21ページである。私がハンドペイント映画を非決定論的時間モデルと呼ぶのは、那田氏も書いてくれている通り25ページのことであり、ハンドペイント映画の齣の並び方を分析した結果である。両者は4ページも離れており全く関係がない。那田氏は、あたかも私が抽象表現主義とブラッケージを量子力学で説明しているかのように書き、「私は、この手の批評を全く信用していない。もしどうしてもそういいたいのなら、抽象表現主義の作家たちが、量子力学から影響を受けた事実を実証的に証明すべきである」と批判している。その前に那田氏は、もしどうしてもそういいたいのなら、黒川が「抽象表現主義の作家たちが、量子力学から影響を受けた」と書いている事実を実証的に証明すべきである。量子力学という単語が登場するのは、私の全文中でいま書き出した1ヶ所のみである。ブラッケージにも抽象表現主義にも関係ない。

那田氏の指摘では、私が量子力学やホワイトヘッドを持ち出したのは権威をありがたがる気持ちや劣等感の裏返しのためらしく、このように科学や哲学の概念で作品を批評することを「権威主義的演繹批評」と呼ぶという。私がウォディントンを引用したのは、ハンドペイント映画の中に『コンクレサンス』という作品があり、ブラッケージがホワイトヘッド哲学の用語とコメントしていたからである。戦後アメリカ芸術とホワイトヘッド哲学の交差する文章を引用し、それとなくバック・グラウンドを示そうと思ったのだ。ところで、ホワイトヘッドの用語をタイトルにするブラッケージも、那田式にいうと「権威主義的演繹作家」であり、私と同じ穴のムジナということになるのだろうか。おもはゆい。

抽象表現主義は美術に不可逆的な変革をもたらした。その後の現代美術は、直接間接を問わず抽象表現主義の影響の下にあるという見方も可能である。一方で抽象表現主義の特徴といわれたものが一般的な絵画・デザイン技法として定着した。デザインの授業の中でドリッピングもポアリングもオールオーバーな図形パターンも教える。したがって私は、オリジナルの運動と余りにかけ離れた作品を抽象表現主義と呼ぶことに意味を感じない。まして映画である。もちろん影響や共通性を指摘することは意義がある。ハンドペイント映画を抽象表現主義との関係によって表現するならば、「抽象表現主義以後」の芸術ということになるだろう。抽象表現主義が切り開いた表現の地平からスタートし、異なった問題を抱え込んで様々な芸術が展開された。そこにはアラン・カプローのハプニングのような美術から逸脱した表現もあるし、ブラッケージのように映画という地点から美術に接近した例もある。しかし、抽象表現主義のカテゴリーでそれらを語ることはできない。

那田氏はハンドペイント映画を抽象表現主義という過去に引き寄せて捉え、そこに生き方の美学を見ている。私は、ハンドペイント映画を、何ものにもカテゴライズできない現在の真新しい表現として捉え、抽象表現主はその源流の一つと考えている。私は、新しい表現を既知の中に配置するのではなく、新しい言葉で捉えることが前衛の使命だと思う。

那田氏の反論にできるだけ丁寧に答えたつもりである。すっかり長くなってしまったがお許し願いたい。

那田氏へ、私の書いたものに悪意の捏造か誤読の上に成り立った批判を加えても、自分を傷つけるだけである。それより、自分の言葉で自分の考える抽象表現主義について語ったらどうか。説得力があれば、賛同する人も現れるだろう。

黒川芳朱

★ ブラッケージのハンドペインテッド・フィルムスをめぐって刺激的なやりとりが交わされています。

これまで日本では批評の対象になっていなかった映画ですので、ハンドペイント映画の解釈に関して実りある議論が生まれてくることを期待しています。何か意見を挟みたい!と思われる方は、ぜひ
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来年はブラッケージ回顧展も控えておりますので、今後のメールニュース上では、もっともっとブラッケージ映画について、いろんな方々の批評、感想、解釈などを掲載していきたいと考えています。

それでは皆様どうぞよいお年をお迎えください!

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