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●スタン・ブラッケージ 映画の極北 メールニュース
NO.14
2002.7.26

○「STAN MIDNIGHT」情報!
○ブラッケージについて、個人的な思い、受けた影響、作品批評、もろもろを心ゆくまで語っていただくリレーエッセイ『私とブラッケージ』コーナー!第6回は文芸・映像評論家の生野毅さんです。

☆「LOVE SONGS」公開記念スペシャルオールナイト
「STAN MIDNIGHT」情報☆

7月27日(土)23:00スタート(20:00より受付にて整理券配付)
前売2,700円/当日3,000円(劇場窓口、チケットぴあにて発売!)
会場:BOX東中野(TEL:03-5389-6780)

7/27(土)の夜に“STAN MIDNIGHT"と題したオールナイト上映を開催します。上映作品は、スタン・ブラッケージ『DOG STAR MAN』『窓のしずくと動く赤ん坊』『MOTHLIGHT』等8作品の他に、愛知芸術文化センター・オリジナル映像作品第10弾石田尚志『フーガの技法』、居田伊佐雄、松本俊夫、黒坂圭太の代表作、能登勝、水由章の東京初公開作など全14作品。また、石田尚志トークと「スタン・ブラッケージ回顧展」実行委員会メンバーによるトークバトルも予定しています。真夏の暑い夜に、エクスペリメンタルな熱い一夜を過ごしませんか!

◇上映作品

〈BRAKHAGE EYES〉
『FIRE OF WATERS』1965/7分
『窓のしずくと動く赤ん坊』1959/12分
『夜への前ぶれ』 1958/40分
『THE DEAD』1960/11分
『思い出のシリウス』1959/11分
『MOTHLIGHT』/1963/4分
『自分自身の眼で見る行為』1971/32分

〈日本の実験映画〉
『オランダ人の写真』居田伊佐雄/1976/7分
『アートマン』松本俊夫/1975/11分
『フーガの技法』石田尚志(制作:愛知芸術文化センター)/2001/20分
『水光色』水由章/2001/7分
『光・しずく』能登勝/1998/11分
『変形作品第5番-レンブラントの主題による変形解体と再構成-』黒坂圭太/1986/28分

『DOG STAR MAN -完全版-』1961-64/78分

終了29:40(AM5:40)予定。

詳しくは
http://www.mistral-japan.co.jp/film/f/lovesong.html#an
まで

スタン・ブラッケージ ハンドペイント作品集
「LOVE SONGS」はBOX東中野にて、8/9(金)まで
21:15より上映中(但し日曜日は休映)!

☆〈私とブラッケージ〉第6回 生野毅☆
『皮膜の向こうの「夜」・狂気一死の「昼」』

 異常なまでの酷暑に見舞われた21世紀最初の8月、多忙でなかなか足を運ぶことのできなかったBOX東中野における特集上映「ブラッケージ・アイズ」にようやく赴くことができた。しかし「ブラッケージ・アイズ」に参加できたことは、ビデオを含めてすでに何度も観ているはずのブラッケージ作品を改めて観て堪能した、等といったレベルの体験ではなく、大きなスクリーンに(もしかしたらリュミエールよりも遥かに以前の)映像の「始原」が生成したかのような、あるいはブラッケージが20世紀が生んだ既知の巨匠ではなく、あたかも21世紀の先陣を切って忽然と現れた天才であるかのように印象づけた、実にスケールの大きな感動と衝撃を私に与えてくれたのである。以下、私にとってとりわけ印象深かったAプログラムを中心に筆を進めてみる…。

 以前の『DOG STAR MAN』のロードショーには、パンフレットやチラシに上映作品が「完全なるサイレント」であることが強調されていたが、今回も劇場内部では客席への出入りの際に観客が本来的にサイレント作品であるブラッケージ映画の「沈黙」の状態を可能な限り破らぬよう注意書きをした紙が貼られている。上映期間終了間近、しかもレイトショー枠の公開でありながら客席は満員だったが、いよいよ上映が始まった頃、普通の映画の上映中の客席にみなぎる「静寂」とは異質な、一種独特の緊張した「沈黙」の状態が生まれていたことに私はまず不思議な感動を覚えた。それは強いられた「儀礼」としての「沈黙」ではなく、私たちがスクリーンの向こうに「沈黙」そのものの深さを聴き取り、「沈黙」の彼方にあるものを『自分自身の眼で見る行為』に全身全霊を傾ける為に不可欠な、ブラッケージの映画が、本篇が具体的にスクリーンに姿を現わす以前に観客を自ずから誘う独特の緊張の状態であったように私には感じられたのだ。

 それだけに例外的なサウンド作品である『FIRE OF WATERS』は、「沈黙」の中から音が立ち上がるという出来事それ自体が、映像の純粋に視覚的な体験においてはいかに「例外」的なことであるか、ということを物語っていたように思える。この作品を小規模な空間での試写で観た時は、モノクロームの映像の鮮烈さは心に残っても、音響設備の不十分のために音がむしろ言わずもがなの効果を与えていると感じたのだが、今回観た時は、スクリーンいっぱいにひろがる闇の彼方にときおり閃く稲妻、間歇的に浮かび上がる夜の風景といった映像と、やはり間歇的に、不連続的に聞こえてくるノイズ的な音響とが、私たちの見ているもの、聴いているものの余白の世界のひろがりを実感させてくれた。

 音を非映画的要素として排除するブラッケージは、しかし元来は音に対しても異常に敏感な感性を有しているのではないか。そのような作家が音を排除するということは、映画の音そのものへの批判を意味しているのではなく、ブラッケージの「沈黙」とは音に対する極めてラディカルな姿勢を浮き彫りにしているということが言えるのではないだろうか。ブラッケージがサイレント映画を志向していると定義するよりも、20世紀において音の問題に対してラディカルに接した映画作家たち(ベルイマン、アントニオーニ、キュ−ブリック、タルコフスキー等々)と比較して考察してみる意義があるように思える。

 『窓のしずくと動く赤ん坊』や『夜への前ぶれ』も、今回大画面で観たことで印象を新たにしたのみならず、これらの作品に秘められた強靱な認識の力や既成の認識を揺さぶる力というものを実感した。かつてのブラッケージの妻ジェーンの分娩の瞬間を克明にとらえた作品である『窓のしずくと動く赤ん坊』を、私は「あたかも一つの惑星の誕生のようなダイナミズム」といった言葉で形容したことがあるが、母親の膣口から赤ん坊の頭がのぞき、やがて外界へと導かれてゆく過程は、大画面で観ることによって、凡百の映画のスペクタクル・シーンを超えた、圧倒的なシークエンスと化していた。遠い過去から現在、未来に至るまで無限に等しく反復される生殖の営みは、その膨大な数量の故に自明で「普遍的」なことがらであると私たちがつい錯覚しがちな現象であるが、その一つ一つをのぞいて見れば、そこにいかに不可思議な宇宙が開けてくるか、ということをこの映画は生々しく実感させてくれる。死体解剖の模様を延々と撮った『自分自身の眼で見る行為』や、愛犬が草むらの中で朽ちてゆくさまを撮った『思い出のシリウス』といった作品、いわば「死」を直視した作品と『窓のしずくと動く赤ん坊』とは決して対照的であるわけではないだろう。映像表現につきまとう欺瞞性を透過する冷徹さとわれわれの目で見える領域を超えた地平で世界をリアルに感得しようとする熱い衝動とを併せ持つブラッケージのまなざしにおいては、生殖の営みと死や腐敗は対立するものなのではなく、それらは生成と退潮を繰り返す宇宙の運動性のあらわれとして見極められているのだ。

 『夜への前ぶれ』は、私個人としてはブラッケージの作品の中では最も好きな作品である。この作品では、淡く黄金色の陽光に彩られた庭、そこに散布される水のしぶきと這い回る赤ん坊、家屋の内外をうごめく不穏な人影、開閉する扉、といった映像に始まって、しだいに夕暮れの憂愁に冒されてゆく空の下の街道を直進する車の中からとらえた映像が展開してゆく。それは遠近法に依拠した私たちのまなざしが無効化され、不安と期待が交錯する「夜」のただ中へと突入してゆく映像の推移である。

 『夜への前ぶれ』を観ている最中に私はこんなことを考えた。…今、この映画館の一歩外に出れば、そこには酷暑の「夜」の膨大な闇が広がっている。連日、陰惨で常軌を逸した犯罪の数々がメディアで報道されているが、映画館の外の闇はそうしたおびただしい狂気と殺意を絶え間なく呼吸しているわけである。では、今客席の前方に私が観ている「夜」とはいったい何であろうか。それはフィルムをスクリーンに投影することで再現される「虚構」の「夜」にすぎないのだろうか。だが、私のまなざしに映っているこのもう一つの「夜」は限りなく「リアル」でもあるのだ。いわばこの「夜」は狂気と殺戮を湿気のように吸い込んで重く地表に垂れこめた現実の「夜」が裂け分かれたところに展開してゆくのだ。

 このもう一つの「夜」は映画館の一歩外のそれと比べるとより不可解だが同時に遥かに甘美な体験をも与えてくれる。この甘美さとは、決して映画が捏造しがちな「虚構」としての甘美な幻想ではなく、いわゆる〈現実〉の「夜」の皮膜を突き破ったところに現れる、私たちの存在の始原へと向かってゆく体験を物語っているのではないだろうか…。 もちろん「夜」の不安な甘美さはやがて「昼」の過酷な晴朗さにとって変わる宿命にある。『夜への前ぶれ』は、ブラッケージ自身が首を吊リ、晴れた青空めざして垂直に屹立するかのように壁の前でぶらさがる場面で(もちろん、この「自死」という行為は、さらなる「夜」への旅立ちをも意味しているのだが)終わる。…「ブラッケージ・アイズ」を観終って私は再び「夜」の闇の中に出ていった。…それから約一ヶ月後だった。日本ではようやく台風の暴威が過ぎ去った頃、あの戦慄すべき同時多発テロの映像が全世界を走り抜けたのは…。あたかもそれは「夜」の闇の中に膨大に蓄積されていった憎悪や殺戮の意志が何の「前ぶれ」もなく「昼」の世界へ反転したかのような出来事であり、それ故ににわかには信じ難い出来事であったのだ。晴天に屹立した巨大な摩天楼に閃光と亀裂が走り、崩落する映像を何度目かに観た時、やはり青空に垂直に屹立するように首をくくったブラッケージの身体が頭をよぎった。理不尽な殺意によって一瞬にして数千人の死者、行方不明者が生まれたことと、一人の表現者の意志的な死への傾斜とはあまりに質量において異質な出来事である。だが言いうるのは「昼」というものが過酷に暴き出す死や狂気というものに私たちは「リアル」に対峙してゆかなければならないということだ。今、ブラッケージのまなざしは、崩落した摩天楼の無惨な痕跡を、いわば「昼」の力が暴き出した光景を、いかにしてとらえているだろうか。
(2001/9/11〜16)

生野毅 プロフィール
1964年東京生まれ。文芸・映像評論家。
現代詩、実験映画を中心に批評活動を展開し、ジャンルを超えたコラボレーションの企画にも参加している。現代俳句の創作も行なう。現在、第一評論集の準備中。

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