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●スタン・ブラッケージ 映画の極北 メールニュース
NO.4
2001.8.24

◆8/3にて『BRAKHAGE EYES』(於:BOX東中野)は上映終了致しました。
トークショー、オールナイトは大変盛況で、多くの人達に観ていただけたと思います。
どうもありがとうございました!!
東京以外での今後の上映に関しても御支援いただけるとありがたいです。

○7/21におこなった、ほしのあきら氏トークショーからの抜粋を掲載。
○次号より、ブラッケージについて、個人的な思い、受けた影響、作品批評、もろもろを心ゆくまで語っていただく『私とブラッケージ(仮題)』コーナーを新設します。投稿大歓迎です!

☆2001.7.21 ほしのあきら(映像作家・多摩美術大学教授)トークショウ
「存在と向き合う映画」
(司会:水由章)

ほしの:今回初めて『DOG STAR MAN』第三章を見て驚いた。ネガとポジをうまく重ねてダンスのように踊りながら撮ったり編集したりしていて、それがブラッケージ節だと思った。『思い出のシリウス』では愛犬を朽ちていくまで撮っているが、あのように短い画面やサッと動く映像は記号的な「意味」としては使っていない。肉体とカメラが一つになって見続けているのだ。ああいうものは、パッと見て一瞬で撮れるものではなく、真剣にじっくり見て、自分の中に対象がイメージとなって入ってこないと撮れない。彼の映画には一つの大きなイメージがあり、それと向かい合い続けている。『MOTHLIGHT』は蛾の羽や葉っぱをベタベタ貼っているだけでなく、流れとディティールを真剣に見ながら形を壊したり、造ったりしながら作っている。あそこまで人間は「存在」と向かい合えるものだろうかと思うくらい真剣に向かい合っている。その姿勢が持つ美しさを感じる。
『自分自身の眼で見る行為』は簡単に言葉には出来ないところがあるが、映画を作る人間として解るところで言えば、ファインダーを見る時は客観的に「綺麗だ」「よい」という気持ちが湧いてきて初めてシャッターが押せるものだ。特にブラッケージはなんにでもシャッターを押すのではなく、本当に心が動かなければ押さない。心がスッと引いていく前にシャッターを離すので無駄がない。それによって、カメラ内編集で映画が出来る作家であると思う。彼はファインダーを覗いた人間だけが得られる高揚感と冷静さの両方で行為を見ているのだとわかる。普通の人であれば何かが起き、経過し、終わるという当たり前の時間軸で表現しようとするが、ブラッケージはそれにあまり興味がなく、自分の心が動いたことをファインダ―の中に丸ごと撮ろうとしている。子供のように無邪気にものを見ている感じがする。
どれも絵画的構図で言うと特別美しいものを撮っているわけではないが、そこを見たかったのだろう、と思えるナチュラルなカメラアイが『自分自身の眼で見る行為』では内容が内容なだけに顕著に見えた。ともするとただ気持ち悪い映画になってしまいそうだが、そういう感じが全くない。おそらくブラッケージは「見せたい」意識はなく、「ただ」見ている。つまり「存在」と必死に向かい合っているのではないか。

水由:昨年『DOG STAR MAN』を公開して、若い人たちからも衝撃を受けたという感想が多く寄せられている。ブラッケージは、来年で制作50周年を迎えるので、平均で年間7〜8本ずつ作っている事になる。ブラッケージは生のフィルムを直接触って、切ったり、貼ったりして編集する。ビデオは磁気テープを切ったり、貼ったりはしないので、触ることのないメディアである。またフィルムはシャッターを押すときの緊張感も圧倒的であると思う。フィルムは何処でまわすかまわさないか常に考える。ビデオだと色々なカットを前後長く撮って後で編集という人が多い。

ほしの:マイケル・スノウもまだ作っているがビデオである。みんなビデオで撮るようになっているが、ブラッケージは本当にフィルムがぴったりしている。

水由:彼はここ数年来、35@のポジフィルムにスクラッチしたり、ダイレクトにペインティングするハンドペインティッドフィルムを作っている。

ほしの:『夜への前ぶれ』や『DOG STAR MAN』でもピンぼけやフィルムの前後で光が感光して、白や赤になるところを使っている。そういうことを若いころに見て驚いて、こんな美しさがあったのかと教えられた。我々は感光してしまったものを「素抜け」「白み」「黒み」などの言葉で見てしまっているが、そこにある感光された光の流れはこのような美しさを持っていると認識するところが本当にフィルムを見ている人だと思った。
映画を作りたいと思ったとき、まず他人のスタイルがあってそれを真似るところから始まると思う。自分もよく見かけるスタイルで映画を制作していたがピンと来ず、ずっと自分のスタイルを探していた時に、アメリカの実験映画や大林宣彦さんなどの今まで知らなかった幅広い映画を観て、“映画とはこんなにも自由だったのか”と思った。しかし、自由ということは比べるものがない地平に立つということで、どうすれば良いか分からないまま試行錯誤の連続で何本も作り続けた。
その後72年の秋に初めてブラッケージの映画を見て、“本当の自由とはこんなにも自由でいいのだ”と思った。ピンぼけも感光した部分も使い方によってはすごく綺麗だし、しかも彼は自分の思い通りにカメラを操るために体を鍛えていたので、動きや編集が自在で本当にダンスのような映画である。映っているものも彼の身の回りにある、彼の好きな風景や奥さん、子供、犬である。そういったものが小さくまとまらず、大きな世界を作っていることに感激して真似を始めた。しかし、撮っている画面が自分の必然にならないと、どんなにカメラを動かしてもフィルムを切り刻んでも生きない。それに気づくまでブラッケージとの付き合いは長く続いていった。ジョナス・メカスが“ピンぼけもブレもすべて映像をつくる上でのボキャブラリーの一つなのだ”と言っていたが、実際にブラッケージの映画を見て、ピンぼけやブレがこんなにも綺麗でスリリングなんだと初めて思った。自分のピンぼけを見ても、綺麗だとも、ボキャブラリーだとも思えなかったが、そうだと納得できたのがブラッケージの映画だった。
大学でブラッケージを見せた時、学生は私の時と同じようにショックを受けていた。撮る事が見る人に新鮮に受け取られて、映画を見た人がいろんな風景に対して今までと違った想いをもてればそれは映画の手柄と言えるのではないだろうか。そういう流れで実験映画があると言って見せていた。ある時、『DOG STAR MAN』をみた学生達が“何だあれは!”と延々と話し合っていた事があり、その時に映画とは何だろうと思った人達がそのままの方向で映画を作り続けている。能登勝さんという自家現像で16mmのサイレント映画を作り続けている人や、関根博之さんというカメラ内編集で映画を撮っている人達がいる。このような人達が出てくるのは嬉しい事だ。

水由:ブラッケージの映画は日本ではあまり紹介されていないが、それでもブラッケージに影響を受けた作家は沢山いる。彼は日本の文化もたくさん勉強していて葛飾北斎のように90才まで作り続けたいと言っていた。禅や能などにもインスピレーションを受けているらしい。

ほしの:ブラッケージの作品は、どの作品でもそうだが土の匂いがする。例えば夕暮れ時に丘を見下ろしていて、その向こうに外灯があり、さらに手前に木があって揺れていて光が見えたり見えなかったりといった映画を撮っている。見ていると<死へ流れていく時間>を感じさせる映画が多い。他のアメリカ人の映画はコンセプトがはっきりしているものが多く、ブラッケージのように純粋に目の前にあるものと向かい合って、「死」を感じさせられるものは少ない。ブラッケージの映画のほとんどの作品はどこで終わるか分からない。劇映画であれば盛り上がりがありいつ終わるのか大体予想はつくけれども、ブラッケージの場合分からず、目が離せない緊張感がある。

水由:『自分自身の眼で見る行為』のように実験して行き着いたところが死体解剖だった。パトカーの後ろに乗って行為を写しつづけるといったシリーズがあって、白人の警官が黒人を連行するところを冷たいカメラアイで撮っている。『自分自身の眼で見る行為』では、この時彼なりの対象に出会えたカメラアイを感じる。即物的に死体が気持ち悪い云々ではなく、喜んで撮っていると思う。

ほしの:『窓のしずくと動く赤ん坊』は生から死へという時間の中で生きている、自分と周りに対してのこれ以上ない愛を感じる。ブラッケージは自分の奥さんが子どもを出産するシーンを撮っているが、時々ブラッケージの喜んでいる顔が映る。これは明らかに出産直後の奥さんが撮っている。ジェーンという人もすごい!でも『自分自身の眼で見る行為』では、その先に行ってしまうとああなるのかな、と思いつつ観ていた。愛をつきつめてしまうと孤独でも何でも無く、<ただそこにあるもの>をどれだけ見られるかということになる。<ただ見る>と言う事はどれだけ難しい事か、ということを追求している映画だ。
『DOG STAR MAN』は撮影よりも編集に時間がかかっていて、ワンカットワンカットが本当に目まぐるしく、当時の私には見えていないカットがいっぱいあった。その日その時の自分の気持ちで違うイメージが見えてくる。第3章は昔、税関でストップされて入って来なかったが、今見てみればなぜこんなにも美しいものが税関でストップされてしまうのかと日本の文化状況が情けなくなった。
今回ブラッケージの作品はほとんどサイレントだ。たとえば『タイタニック』を見にいって何人か寝ていていびきをかいていても気にならないけれど、ここでは一人でもいびきをかくとすぐに分かってしまうし、少しでも動くとガサッと音がしてしまう。つまり<見る>という行為がすごい緊張感の中で生まれるということだ。逆にいうと我々は普段からなんていい加減に<見ている>かということだろう。集中して物を見ると、一人一人が同じ風景を見ても、違うものが見えているはずだ、それを写せて、適度な長さに編集することが出来たら、自分の映画になると思う。<物を見る>ということが普段いかに飼い馴されてしまって、そうでない目を持とうと思えば、どれだけ新鮮なものが見えるのだろう。
今日ここに来るのに女房と娘と一緒に電車に乗ってきたのだが、駅に着く前に向こうの空がとても綺麗で、"あっ綺麗だ"と女房が言った。普段から自分の目の前にある「家族」や「人間」「風景」をどこまで新鮮な気持ちで見ていられるかという事をブラッケージから教わってきた。創るというのはとても勇気がいることだが、ちょっとした勇気を持って、いい加減にならないぞという気持ちを持てばきっと100人いれば100通りの映画が出来ると思う。見る方も100通りの見方が出来る。見ても創っても自分なりの見方が出来れば、それが創作ということかなと思う。そういうことをブラッケージから教わったんで、そんな事を考えながらこれから<つくる><見る>事をしていただければと思う。
(2001.7.14 BOX東中野にて)

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[スタン・ブラッケージ 映画の極北 ML]
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